赤井夕陽の「その物語」は、夕陽が藍園学園高校に入学し、2次元文化愛好研究部――通称2研に入部することで始まることになる。
そこからさかのぼることおよそ二ヶ月前の、二月十四日。土曜。
まだ夕陽が中学三年生で、
2研の部員が銀河とルナと夜明の三人だった頃。
午前三時。
白石ルナは、自宅の台所を占拠して、チョコレートを作っていた。
いや、厳密に言うと、少し違う。
「痛チョコ」を作っていた。
簡単に言ってしまって、チョコレートにイラストを描くのである。
もちろん全て食べられる材料を使うので、ちゃんとした食用だ。
ルナには絵心はそんなにない。
授業中などに漫画やアニメのキャラを落書きしたりはするが、それほど上手くはない。と、少なくとも自分では思っている。
だが、愛があれば、と思うルナなのである。
今、ルナはクッキングシートの上にビターチョコで描いた主線が、冷蔵庫の中で固まるのを待っているところだ。主線が固まってから各種の色を付けていくのである。
ここまでに使った調理道具で、もう使わないものを洗ってしまいながら――
ルナは、にへら、と笑う。
考えているのは、「ヴァル×イブ」カップリングにおける、バレンタインの過ごし方である。
ざっと説明が必要かと思う。
この場合「ヴァル×イブ」というのは、ヴァルナと息吹という二人のキャラクターのカップルのことを示している。ヴァルナと息吹というのは、来期にはアニメの放送も決まっているライトノベル「ジャッジメント・イヴン」における、二人の主人公の名だ。ヴァルナというのは魔人の、息吹というのは人間の、どちらも青年の「男子」である。
えーと。
いやまあ、バレンタインも人それぞれだ。
午前九時。
黄瀬ひなたは、自室のベッドで横になったままぼーっとしていた。
ひなたが通う美杉第三中学校は、他の多くの中学校と同様に、土曜日は休みだ。
そして彼女は、本命である藍園学園高校の入試を終えて、その合格発表を明日に控えているという、実にこう受験生としてどう過ごしていいのかわからないタイミングにいるのだった。
もちろんまだ「受験」が終わったわけではない。
模範的な受験生であれば、勉強をしているべきなのかもしれない。
だが、しかし――
充分に真面目で、充分に一所懸命で、充分に努力屋のひなたは、今までおよそ三年間もの時間を、藍園学園高校の入試のためにがんばり続けてきたのだ。明日の結果が出るまでくらいは少し腑抜けていても仕方がない。
ひなたはごろりと寝返りをうち、サイドテーブルに手を伸ばしてスマートフォンを手に取った。
慣れた手つきでアドレス帳を開く。
表示される五十音順の、最初に登録されている名前を見つめる。
赤井夕陽。
だけれども、そこにはメールアドレスも電話番号も記入されてはいない。
ただ、名前だけが表示されているだけだ。
もうあと一月も経てば、中学は卒業になる。
そうしたら「クラスメイト」という細い関係も、終わってしまう。
夕陽がどこの高校に行くのか――どころか、どこの高校を受験するのかすらも、知らない。
「……連絡先、聞いておけばよかったかな」
せめて今日学校があれば。
何気なく、チョコレートを渡すことぐらい、できたかもしれないのに。
そう思ってから――
「別に、好きってわけじゃない、けど」
小さく声に出して、
ひなたはスマートフォンをサイドテーブルの上に戻した。
ぼふり、と布団に身を沈める。
正午。
黒田夜明は、2研の部室でいつもの席に座っていた。
藍園学園高校は、今どき珍しく、土曜日も午前中だけは授業があるのだ。
放課後になって間もないためか、まだ銀河もルナも部室には来ていない。
夜明は落ち着かない様子で、入り口のほうをちらりと見やり、ついで視線を自分のカバンに向ける。
――なんというか、迷ったのではある。
なにしろ今まで、バレンタインデーというものに憧れてはいたものの、夜明は誰にもチョコレートをあげたことがなかった。
いや、むしろ、憧れの気持ちが強すぎたのだ。
夜明の好きな漫画の世界では、バレンタインデーというのはある種神聖なもので、特別な相手に特別な気持ちを伝える特別な日であった。
だから、今まで、誰かにチョコレートを渡そうなどと思ったことはなかった。
そんな恐れ多いことはできない、と思っていた。
だが。
銀河に出会ってからの一年で、夜明は少しだけ変わった。
もちろんそうは言っても、本来的な意味での、恋人同士の愛の誓いをするわけではない。
そんな相手など、異性の友人すらいない夜明には、到底いない。
だけれども、日本的なバレンタインデーの意義として「大切な人に想いを伝える」のならば、夜明にだって相手はいるのだ。
と、今の夜明は思う。
別に緊張する必要などない。
別に意識する必要などない。
自分に言い聞かせる。
友チョコとか世間では呼ばれてるし。みんなもっと気軽に渡しているのだから。
銀河とルナのために、2時間店先で迷って選んだチョコレートは、カバンの中でじっと出番を待っている。
午後六時。
蒼乃銀河は、日の落ちた道を自宅に向かって歩いていた。
白い吐息を吐き出して、その行方を追うように空を見上げる。
早い時間に瞬く星々が、紺色の中に砕かれた氷のような輝きを放っていた。
急に寒さを覚えた気がして、銀河はマフラーの中に顔をうずめる。
「……」
口の中にチョコレートの甘さが残っていた。
部室でのこと。
ルナから銀河と夜明に、それぞれヴァルナと息吹の痛チョコが渡された。
夜明からルナと銀河には、可愛らしいカップケーキを模したチョコレートとロリポップチョコレートが渡された。
銀河からも二人にチョコは渡したが、手間をかけたわけでも悩んだわけでもなく、ちょっとだけ高価なナッツチョコを適当に買っただけだ。まあ、それはどうでもいい。
銀河は、ルナも夜明も可愛いと思う。
直接そう伝えれば、二人とも否定するだろうが――
ルナはそもそもの気質がわかりやすく女の子っぽい。少々「腐って」いるのが難ではあるが、2研の三人の中でもっとも女子らしいのはルナだ。人当たりも良く、ある種の社交性も持ち合わせている。男女問わずに人気があるタイプだろう、と思う。実際のところは知らないが。
夜明は内向性が強く、比較的心を開いているはずのルナとさえもあまり話をしようとしないが、その実はものすごく乙女である。普段は表情すらろくに変えないために気づかれにくいようだが、顔立ちもあわせて美少女の部類だ。と、銀河は思っている。
将来のクリエイターを目指す者として。
銀河は、自分にその可愛さに匹敵するものが描けるだろうか、と考える。
表現すること。
銀河にとってその目的は、人の心を動かすこと、だと思う。
だとすれば。
――たとえば、今、頭上に広がる星空に、自分は勝てるのだろうか。
もちろん、その方向性自体が異なるのだから、比べるべきものではない。という考えもあるかもしれない。それは食べ物でいえば、インスタントとファミレスと高級飲食店を比べるようなもので、そもそものベクトルが違うのだから意味が無い、と。
だが銀河は、そのスカラー量というか、絶対値としての大きさにはそれなりの意味があると思うのだ。おおよそにおいて、支払う対価が同じなら、得られる「おいしい」は大きいほうが良いに決まっているのだから。
ならば。
ルナや夜明の可愛さがもつ「力」も、
頭上の星空や、夕暮れの海や、朝の稜線の美しさがもつ「力」も、
銀河にとっては、あらゆる意味で意識すべき「力」なのである。
「……」
銀河は、手袋に包まれたままの右手に視線を落とし、それをぎゅっと握りしめた。
マフラーの中で、口の端に笑みを浮かべる。
午後九時。
遠藤小春は、自室でパソコンに向かい合っていた。
書いた文面を二度確認してから、送信ボタンをクリックする。
一瞬だけ間があって、メールが送信済みになった。
それを見届けて――
小春は、ふう、と息を吐いた。
これで今日の仕事は一段落した。
キーボードの横に置かれたカップを手に取り、コーヒーに口をつける。
すっかり冷めてしまっていた。が、これも嫌いではない。
「……」
何気なく。
たった今、送信したばかりのメールのタイムスタンプを見る。
20xx / 02 / 14 / 21 : 04
別に、意識しているわけでも、していないわけでもないのだけれど。
「……バレンタインデー、か」
ぽつりとつぶやく。
もう長いこと、バレンタインなんて創作物の中でしか縁がない。
いやまあ、過去を振り返ってみても、胸を張って語りぐさにできるような何かがバレンタインデーにあったわけではないのだけれど。
「……」
小春はカップをデスクに置くと、上半身だけで大きく伸びをしてから、パソコンを操作して新しいテキストファイルを作成した。
キーボードをタイプしながら、思う。
来年のバレンタインには、チョコをあげる相手がいればいいな。
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